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部屋とYシャツとわらG

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小学校へ行こう!


 強気で「やめた」一方で、実はその時点ではまだ講師の行き先が決まっていなかったのだ。それもあって、3月に入ってもまだ正式に辞意を表明しなかった(できなかった)のだ。しかし「優しい校長編」にあったとおり、次年度の計画を立てるための面接などが始まったのに「翌年もいるふり」をするのはイヤだったので、その旨を伝えてしまい、さらに次の話が決まる前に「やめる」ことの方が先に決まったのである。そのあたりは、「まあ何とかなるさ」と思える楽天的な自分なのだ。

 私は教科が社会科なので、あまり「人が足らない」という教科ではない。ましてや私立で…となるとなかなか空きが出るわけでない。で、やっと出たある高校の募集に応じて、面接・模擬授業までやりに行ったのだが、「世界史」の講師募集なのに、「得意な科目は?」と聞かれ「倫理と日本史です」と答える失態まであり、「こりゃだめだ」と思いながらの結果待ち…になっていた。他に若者が5人くらいいたので「終わったな」とすでに思ってはいた(年齢が高いほど報酬を高くせざるを得ないので向こうは結構嫌がるとの話を他の私立校の人に聞いていた)。

 そんなある日の夜、電話が鳴った。ある小学校で、1年間研修に出る人がいて、その代わりに1年間限定で講師をやらないか…という話であった。教える科目は基本的に全科(クラス担任)ということだ。実は過日、自分の出身大学の就職課に登録して、履歴書をあずけていったのだが、その大学の附属小学校の校長が人を探しに訪れて、就職課の人が照会&紹介してくれた…のだった。(就職課のEさんありがとう)

 即答できずに待っていただいた。(というか向こうが「少し考えていただけますか」と言ってくれた。)いい話というのも唐突すぎると思考回路を停止させるものである。問題点や状況を整理してみると、
1 せっかくはじめても翌年につながらない1年かぎりのお話である。
2 自宅から1時間半くらいなので今よりはいいが、近いとも言えない。
3 大学では小学校の専門課程だったが、実は初めての経験である。
4 でも「一度小学校の担任もやってみたい」と前々から思っていた。
5 いくつか専科の教科が入っても全科なら枠数が大きいので金銭面で助かる。
6 あ、もし高校の講師受かってしまったら断らないといけなくなるが、そっちには「第1志望」って言ってしまっている。
7 高校断ったあとで、こっちの小学校も落ちたらピンチ!
8 でもこの話は断るのがもったいないぞ! ぜひやってみたい。

 などといろいろ考えるうちに、「ここに行くのが一番」ながらも、筋を通して、「こちらが今は第1志望ですが、すでに受けている手前、高校の話が来てしまったらそちらに行きます。でも多分落ちてます。はっきりするまで待っていただけますか?」という電話を後日した。そしてありがたいことに待ってもらえて、無事?高校の不採用通知をもらい、さあ、これからこの小学校の面接だ!…となった頃がちょうど養護学校をやめた日だったのだ。

 なので、その面接には背水の陣でのぞんだ…のだが、こちらの気合いとは裏腹に、対応してくれた教頭や教務主任が優しくて、しかも「採用」を前提にしたかのように話がどんどん進むのでとまどってしまった。ひと通り状況説明や勤務条件などを聞いたあとで、「あのー、採用かどうかはいつどんな形でお知らせいただけますか?」と聞くと「今は校長が海外出張中なので正式には採用と答えられませんが、もともと校長が履歴書見て気に入ったのだからまずまちがいないですよ。私達二人(教頭・教務主任)はもちろんOKです。それよりも、こんな条件で○○さんこそ、この話を受けていただけますでしょうか?」と言われた。

 1年間、さんざんイヤな管理職と戦ったせいか、思わず泣きそうになるくらいうれしかった。そして数日後、帰国した校長の確認がとれて、採用が正式に決まった。「捨てる神あれば拾う神あり」 「禍福はあざなえる縄のごとし」なのである。

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 次は小学校…と決まってからは、期待と不安の日々である。養護学校の当時の同僚の証言によると「やめるとなってから顔色がよくなった」とのこと。残りの年休を使い切ろうと思えば、3月の途中からは、もう一日も来なくていいのだが、ちゃんと最後まで生徒達と一緒に過ごすために来ているから偉いもんだ!(といってもその方が普通かな) 「自分や生徒のために働いてるのであって、学校や校長のために働いているのではない」とはっきり言える時間だから気持ちいいのだ。 

 まあ謎なのは、これからいばらの道?を歩こうとしている私に「ここを出られていいなー」と言う人が何人もいたこと。他の先生達も結構つらい思いをしているようだった。よく私達は自分たちの職場環境を某国にたとえ、「将軍様は…」とか「○○さんは喜び組だから…」などとその支配ぶりをギャグにしていたが、これにより私は「脱北者」と言われうらやましがられるようになった。(裏切り者にはその後、行事の招待状なども一度も来ません…)

 「運命」だなあ…と自分でも思うのは、その小学校は偶然にも私が初めての教育実習に行った学校なのだった。自分が人生の節目に立って「さあ、また新たにがんばるぞ!」という時に自分の原点だった場所に戻れるこの「不思議さ」をかみしめていた。

 3月末に小学校に再び打ち合わせに行った。あいにくの雨だったがそれが気にならないくらいわくわくしていた。この土地は自分にとっての縁起のいい場所?である自信があるのだ。なぜならここは出身の大学が近くにあり、9年間住んでいた街であり、自分の人生がうまく回転し始めた時代を過ごした場所であり、ここでの出会いがたくさんの喜びをくれたのだから…。

 この年の早咲きの桜を見上げながら、「あ、花見の時、ここでゲロ吐いたな。」 「夏、この噴水の中にわざと落ちたな。」などあまり桜に似つかわしくないことばかり思い出した…。

 1年間のみの代理…というのが、最初は引っかかっていたのだが、むしろそれがかえっていいことに気がついた。この年が息子の就学相談の年となり、「翌年から小学校の特殊学級に通わせたい」と夫婦では考えていた(就学相談についてはまた違う時に書くつもり)。そうなると翌年からの「送り迎え」のことがネックになるのは必至なので、その時に来年度の仕事が白紙であることはかえって都合がよかった。また、大学の就職課が近いので「出物の講師はないか」ちょくちょくのぞきに行けるし、そうした就職活動を、秘密裏にではなく、普通に堂々とできるのだ。

 また、来年度以降も続くかも…となるといろいろと気を遣わなければならない所が、「いても1年」という割り切りがあるから、実際に、何かと思いっきりよくやれた。特に子どもたちとの関係や保護者との関係を築く上で、その思い切りから来る言動がかえって信頼されたようで、これはもうけた。

 そんな感じだから、初対面の日からいきなり子どもたちに「はじめまして、キムタクです」とか名乗れるのである。もちろん似てないからこそ言えるのだが…。



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